こんにちは!フリーランスの現役英日翻訳者、ランサムはなです。「みんなの英語ひろば」での連載もおかげさまで7回目になりました。いつもご覧いただき、ありがとうございます!
さて前回は、離婚をきっかけに米国カリフォルニア州サンフランシスコ/ベイエリアを離れ、翻訳の仕事を続けながらテキサス州やアラスカ州を転々とするようになった経緯をお話しました。
日本に戻ることを考えながら、一歩を踏み出せずにいた私は、父の入院をきっかけに、故郷の北海道に戻ってきました。
国を変えても、お客さんがついてきてくれるのかという不安。
日本に移る前の数年間、テキサス州オースティン→砂漠の街アマリロ→アラスカ州フェアバンクスを転々とし、好きな場所で暮す「予行演習」はできていた私ですが、さすがにアメリカから日本へ拠点を移すことについては、大きな不安を感じました。
イギリスやイスラエル、オーストラリアの取引先については、私が日本に引っ越しても今までどおり仕事を送ってくれるだろうと思いました。私がアメリカに住もうが日本に住もうが、先方にとっては私が外国暮らしであることに変わりはないからです。
気がかりだったのは、アメリカの会社との取引でした。ご存じのとおり、日本とアメリカは、時差の関係で昼夜が逆転しています。アメリカの会社が日中仕事を送って来たときに、日本にいる私は寝ていることになります。
すぐにメールに返信できないので、急ぎの仕事を取り逃す心配があると思いました。その他、支払いや税金の問題もありました。税務上の理由で、アメリカ国外に仕事を発注したがらない翻訳会社もあるかもしれません。
それにアメリカの会社は、米ドル建ての小切手を郵送してくることが多かったのですが、日本に引っ越す以上、電信送金に切り替えてもらわなければなりません。外国送金の高額な手数料を負担してもらえるのかどうか?
こればかりは、交渉してみなければわかりません。結論から言うと、日本に帰国した結果、私はアメリカの取引先の3分の1を失いました。
電信送金の手数料や時差などの要因以外にも、国外に発注する場合の書類手続きが面倒だ、などを理由に、アメリカ在住の翻訳者を好んで使いたがる会社は、想像していた以上に多かったのです。
やはり国を変えるということは、アメリカ国内各地を転々とするのとはわけが違うな~・・・と実感しました。ただし、アメリカの取引先を失った一方で、日本国内の会社とも新たに取引を始めることができたので、それほど大きな減収にはなりませんでした。
半専属で使ってくださる日本の会社も現れ、結果的にはかえって良かったと思います。まさに「捨てる神あれば、拾う神あり」だな・・・と思いました。
周囲をびっくりさせた北海道富良野市への移住
北海道に戻った私たちは、まずは旭川市の中心部に家賃2.5万円、1DK、築20年のアパートを借り、ここで暮しながら、永住先となる土地と物件を探し始めました。
せっかく田舎に戻って来たので、北海道らしさに溢れていて、景色が美しく、物価が安く、同時に病院、銀行、郵便局、スーパーなど生活に必要な設備が揃っている土地を探そうと思いました。
(他の人に言うと笑われるのですが、たまにアメリカが恋しくなるときもあるかもしれないので、ホームシックを癒やしてくれるマクドナルドなどのファーストフード店が近くにあることも、私たちには大切なことでした。)
ただ、物件探しは、思っていたほど簡単ではありませんでした。インターネット発祥国のアメリカで暮していた私たちは、知らず知らずのうちにネットに依存し過ぎていたようです。
日本(特に地方)では、家探しや就職など、移住に必要な情報は、現地に行って自分の足で探さないと見つからないことを痛感しました。もう1つ難航したのは、周囲からの理解を得ることです。
北海道で生まれ育った方々には、私たちがあえて田舎で暮したい、というのが、なかなか理解できないようでした。
「札幌で暮せばいいのに、何を好き好んで田舎に行くのか?」・・・とよく聞かれました。田舎暮らし=就農のイメージが強いせいか「田舎に行ったって、仕事がないでしょう?農業でもやるの?」と言う人もいました。
今でこそ、有名なブロガーさんが、地方に移住してその様子を発信されているので、「好きな場所で暮す」というライフスタイルが認識されてきていると思います。
ですが、メールで海外から仕事をやり取りし、店の看板も出さずにひっそり暮らしていた私たちは、とても不思議な存在と思われたようでした。
富良野の物件は、偶然口コミで見つけました。旭川で乗り合わせたタクシーの運転手さんに「家を探しているんですが、なかなかよい物件が見つからなくて・・・」と相談したところ、「うちの娘が富良野で家をたくさん売っている。
富良野でもいいなら連絡してあげるよ」と電話番号を教えてもらったことがきっかけでした。たくさん家を売っているなんて、どんなお金持ちなんだろう?・・・と思いながら富良野に行ってみると、そこは新築建売住宅の分譲地だったのです。
ダメ元で住宅ローンの書類を出してみたところ、審査に通り(!)私たちは、晴れて富良野の一軒家で暮すことになりました。
富良野で唯一の翻訳者として田舎暮らしをスタート。
そういうわけで、私たちは「富良野市で唯一の翻訳者」(当時の商工会議所調べ)として、生活をスタートさせました。時差のせいで既存のお客様に迷惑をかけるわけにはいかないと思ったので、基本的に、寝ている時間以外はメールをチェックするようにしていました。
朝早く起きると、アメリカとオーストラリアからの仕事のメールをチェック。午前中は日本の会社とやり取りをし、銀行や病院へ行くなどの雑用をこなします。午後2時頃になると、イスラエルや欧州の会社が連絡してきます。夜6時になると、イギリスの会社が業務を開始します。
イギリスの現地時間の朝(日本時間夕方)にネット会議に招集され、ヘッドセットを装着して英語でディスカッションに参加した後、夜8時過ぎにサンダル履きで富良野の生協に行き、「奥さん、サンマ安いよ!」などと店員さんに声をかけられながら食材を買い求めるという、非常に落差の大きい生活でした。
富良野のご近所さんの中には、国際結婚の夫婦が移住してきたということで、英会話教室でも開くのではないかと期待していた方もいらっしゃったようですが、変な時間帯に明かりがついていて、あまり外にも出ない生活ぶり・・・。
とても変わった夫婦だと思われたのではないのでしょうか。今思えば、お互いにカルチャーショックだったのではないかと思います。
翻訳者として田舎暮らしをしてみて、よかったこと。
結局、私たちは富良野で10年間暮しました。日本の中でも特に「田舎」と言われる富良野に暮したことは、思った以上にメリットがありました。一番の収穫は、日本語力が上達したことです。
英語圏で長年暮し、英語に囲まれていたせいか、知らず知らずのうちに翻訳でも安易にカタカナに逃げる傾向が強くなっていたことを実感しました。
たとえば車での送迎1つ取っても、アメリカでは「ピックアップ」という言葉を日常的に用いていたので、日本語では同じ行為をどのように表現しているのか、思いつかなくなっていたのです。
実際に日本で暮してからは、友人が「じゃあお迎えに行くよ」と言うのを聞いて、「そうだ、日本では『ピックアップ』という言葉を使わずに、お迎えに行く/送って行くというのか!」と再認識させられることが多くなりました。
また、地元のパソコン教室などに顔を出して、自分が手がけた商品を実際に使っている人たちが、「ソフトの日本語版の翻訳がわかりづらい」と感じ、カタカナ混じりの翻訳をどれほど負担に感じているかを目の当たりにしたことも、心に刺さりました。
翻訳というのは、読み手の反応がすぐにわからないので、ともすると一人よがりになりがちです。自分では上手に翻訳したつもりでも、読者は目を白黒させていることもあるかもしれません。
その点、田舎暮らしをしたことで、想定読者の顔や背景が具体的に頭に思い浮かぶようになったことは、大きな収穫でした。常に客観性を忘れず、読み手に寄り添う翻訳を心がけなければならない・・・ということを、再認識させられました。
次回は日本での田舎暮らしから、アメリカへ戻ることを決意するまでの話を書きたいと思います。