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photo by Ray Bodden

こんにちは!フリーランスの現役英日翻訳者、ランサムはなです。前回は、翻訳者を目指している方々や駆け出しの方に向けたアドバイスをご紹介させていただきました。少しでもお役に立てていただければ幸いです。今回は、フリーランスとして独立した後、さらに一歩進んで、ノマド翻訳者になったいきさつをお話ししたいと思います。

ノマド生活のきっかけとなった、サンフランシスコ→テキサスへの引越し。

前回の記事の最後で触れましたが、米国カリフォルニア州ベイエリアで暮らしていた私は、離婚をきっかけにサンフランシスコを離れることになりました。当時、日本に戻ることも考えなかったわけではありません。でも、実家がある北海道に戻っても、就職先が見つかる確率が高いとは思えませんでした。そこで、大学院時代を過ごして土地勘があり、物価の安いテキサス州に戻ることにしたのです。

スーツケース1つでテキサス州オースティンに降り立った私は、友人の車に乗せてもらい、アパート探しをしました。一年間のアパート契約を結びましたが、所持金はごくわずか。仕事が継続的にきてくれないと、すぐに立ち行かなくなることは明らかでした。当時はまだ、リモート勤務がそれほど一般的ではなく、サンフランシスコを離れてテキサスに移っても、今までどおり仕事を送ってもらえるかどうかわからず、とても不安でした。

テキサス州というと、砂漠やカウボーイをイメージされる方が多いのですが、テキサス州は石油産業が盛んで、NASAからもわかるとおり航空宇宙産業や医学が発達しています。日本が丸々2つ入る大きさで、デルコンピューターなどのハイテク企業の本社もあります。デルコンピューターやIBMなどのIT企業のマニュアル翻訳を大量受注している翻訳会社もありました。

カリフォルニアにいたときのように、IT企業の本社に赴いてテストをする、というような仕事はあまりないにしても、地元の翻訳会社で重宝してもらえる翻訳者になれば、仕事が継続受注できる可能性はある・・・と思いました。私は地元の翻訳会社に、「テキサスに戻って来たので、何かあればよろしくお願いします」という挨拶メールを出しまくり、数多くの翻訳者登録サイトに登録しました。

いざフタを開けてみると、カリフォルニアにいたときにひいきにしてくれていた会社の多くは、私がテキサスに戻ってからも引き続き声をかけてくれました。本当にありがたいことです。仕事を発注していただけるかどうかは、プロジェクトマネージャー(日本ではコーデさんと呼ぶらしい)が判断することなので、自分がどこに住んでいるかということよりも、プロジェクトマネージャーさんとの関係を良好に保つことの方が、大切であることを実体験として学びました。

一人になって、翻訳で生計を立てて行く覚悟を再認識。

離婚するまでは共働きで、元夫が月給を持ち帰っていたので、フリーランスの収入に波があっても不自由を感じることはあまりありませんでした。ですので、一人になってみると「一人で仕事を継続的に受注しながら、生活していかなければならない」という現実が、大きなプレッシャーとして、私の肩にのしかかってきました。フリーランスとして独立してから既に2年ほど経っていましたが、自分には気持ち的に寄りかかっている部分があったのだな~・・・と、改めて気づかされました。

何にも誰にも寄りかかることができなくなった今、こんなときこそ、フリーランス翻訳者として使い物になるかどうか、力量が試されるのだ、と思うと、身が引き締まる思いでした。今振り返れば、そこまで必死にならなくてもよかったかな~・・・とも思いますが、当時は必死でした。「生活がかかっている」ということで、仕事に対する本気度がさらに強まったように思います。

力になってくれる仲間との出会い。

この頃、恩師の先生や仕事を優先的に回してくれるフランス人のプロジェクトマネージャーなど、多くの方々が私をランチに誘い出してくれたり、仕事を融通してくれたりするなど、気にかけてくれました。本当に恵まれていたと思います。また、その後、長い付き合いとなる同業翻訳者との出会いもありました。膨大な量の電子部品カタログをチーム編成で翻訳・編集する案件に参加したときのことです。

アメリカ、日本、オーストラリアなど、世界各地から翻訳者が集められました。時間を節約するために、時差をうまく利用してファイルのやり取りをするため、チームメンバーが一人一人メールで自己紹介をして、連絡を取り合いながら作業を進めることになりました。そのとき私は、いろいろな境遇の方々が翻訳者として活躍していることを知りました。チームメイトの多くは、家族を養いながら、フリーランスとして翻訳で生計を立てていました。

シングルマザー、シングルファーザーもいました。なかでも印象的だったのは、アメリカのアリゾナ州で、米国人のご主人に先立たれ、シングルマザーとして4人の男の子を育てておられたYさんでした。若くしてご主人を失うという試練に遭いながら、4人のお子さんを一人で育てつつ、異国の地で明るく奮闘しているYさん。在宅だからこそ、子育てと仕事を両立させられたに違いありません。

私は自分一人を養うだけで、びびっていた自分が恥ずかしくなりました。と同時に、仲間の存在に大いに励まされ、翻訳という仕事がどれほど自由度が高く、大きな可能性を秘めているかを再認識することもできました。このとき知り合った仲間の一部とは、現在も一緒に仕事をしています。

フリーランス→ノマドフリーランスの始まり。

この頃から、アメリカ国内だけでなく、イギリス、イスラエル、日本、オーストラリアなどからも仕事の打診が舞い込むようになってきました。どこに住んでいても、いい仕事をすれば継続的に声をかけていただけることを実感できるようになってきた私は、住みたい場所に住んだらどんな生活ができるだろう、と考えるようになりました。ただ、そのような自由が手に入ったところで、改めて考えてみると、自分が本当に住みたい場所はどこなのか、よくわからないのでした。

日本に戻ってみようか?・・・という思いも、再び頭をもたげてきました。(そう思いながら一歩を踏み出せない海外在住者は、意外に多いと思います)。でも、アメリカ国内ならともかく、取引先の会社が日本にまで私を追いかけて来てくれるだろうか。そう考えると、自信がありませんでした。とりあえず、アメリカ国内であればどこでも住めると考えた私は、アメリカ各地を転々とする生活を始めました。

今風に言うと「ノマド」を実践していたことになります。まずはテキサス州の田舎町のアマリロで一年暮らしてみました。非常に物価が低く、砂漠とサボテンの多いのんびりした街でした。アマリロでは現在の夫と再婚するなど、それなりに収穫もあり、面白い街だと思いました。ただ、日本人の数があまりに少なく、一生をここで暮らすのは、自分には厳しいかも・・・との結論に至りました。

アマリロの次は、アメリカ・カナダを北上し、アラスカ州で1年半ほど暮らしました。白夜やオーロラ、通常の3倍ほどの大きさの蚊や花など、自然の驚異に目を見張る日々でした。生まれ故郷の北海道を思い出すこともしばしばでした。そんなある日、日本の父親が高齢になり、入院したという知らせが届きます。この一件がきっかけになって、私はかねてから躊躇していた日本行きを決めました。今一歩を踏み出さなければ、次はない、と思ったのです。

こうして私は、日本でのノマド生活に挑戦することにしました。

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ランサムはな

年間100万ワードの実務翻訳をこなす翻訳歴21年目の英日翻訳者。津田塾大学英文科、テキサス大学大学院教育学部(カリキュラム・アンド・インストラクション)を卒業。NYの日系新聞社の翻訳を始め、デル、グーグル、マイクロソフト等、一流企業が日本市場を開拓する際の製品やホームページの日本語化、Eラーニングの教材翻訳に多数参画。ネットで世界中から仕事を受注しながらアラスカなど各地を転々とした後、北海道富良野市で10年間暮す。現在はテキサスと札幌を行き来する生活を送る。英検一級。英検二次面接官。日本語教育能力検定試験合格。米国翻訳者協会(ATA)認定翻訳者。ブログは「日本とアメリカで働く翻訳者のブログ」。 ツイッター: @HanaKRansom
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