こんにちは!フリーランスの現役英日翻訳者、ランサムはなです。これまで、私がプロの翻訳者になるまでの道のりをお話しして来ました。

前回の記事では、英語教師になった私が、渡米して現地の日本語教師になり、日英特許翻訳のチェッカーに挑戦してみたところまでお話ししました。今回は、英日翻訳者としてのキャリアがどのようにスタートしたかについてお話ししたいと思います。

一本の電話から始まった、英日翻訳者としてのキャリア。

日英翻訳のチェッカーとして地元の翻訳会社に通うようになって数か月後、一本の電話がかかってきました。相手は「日本語教師養成講座」で一緒に勉強したアキラくん。ミシガンの大学院を卒業したアキラくんは、NYの日系新聞社に就職していました。

「はなさん、バイトしない?どうせそんな片田舎で、仕事なんてないでしょ?アパートの家賃ぐらいは稼げるよ」

・・・悔しいけれど、アキラくんの言うことは本当でした。コールセンターの仕事も、特許翻訳のチェッカーも「う~む」という手応え。あとは着物を着て、日本料理レストランでウェイトレスをするぐらいしか、地元に仕事はない。

しかし不愛想な私に、ウェイトレスが務まるとは思えない。そんな私にとって、家賃代が稼げるバイトというのは魅力的でした。

「どんな仕事?」 「うん、明日の朝から、ボクがメールで英語の記事を2~3本送るからさ、その記事を日本語に要約して送り返してくれる?」 「いつまでに送り返せばいいの?」 「NY時間の午後4時、テキサス時間の午後3時ぐらいまでに送ってくれる?夕方には日本に送るから。」

・・・こうして翌日の朝から、NYのアキラくんから「今日の1本」というメールが届くようになりました。

記事の内容は、ハイテク関連のプレスリリース。新製品や新作映画、キャンペーンの紹介、投資家向け情報、調査会社の調査報告、決算報告、業界の動向に関する考察など、種類は様々です。

一段落で終わる短い記事のときもあれば、数ページもの長~い記事のときもありました。これをプリントアウトしたものを手元に置き、メールの「返信」を押します。そして返信メールの本文にベタ打ちで翻訳を入れていきます。

正直なところ、最初のうちは、何が書いてあるのか、よくわかりませんでした・・・。コテコテの文系女子だった私には、技術系の話は「GREEK」(ちんぷんかんぷん)だったのです。

しかも、プレスリリースは業界最新ニュースなので、鮮度が命。話題が新しすぎて、日本語訳がまだない製品やコンセプトが、英語の記事の随所にちりばめられていました。

「わ、わからん・・・泣」

血の気が引いていくのが自分でもわかりました。しかし、泣き言を言っているヒマはありません。何しろ4~5時間以内に、何とか形にしてNYに原稿を送り返さなければいけないのです。

「出来ない」と言って代わりを探していたら、ますます時間のロスになるし、先方に迷惑がかかります。お尻に火がついたような気持ちで最初の記事に取り組むのですが、その間にも、アキラくんは続々と「次の1本」「最後の2本」と、次の記事を送り付けてくるのでした。

使えるものは何でも使った。

当時はインターネットが普及し始めて、それほど時間がたっていませんでした。オンラインで友人と交流したり、ショッピングをするということ自体、考えられない時代だったのです。

「Affiliate」「Banner」「eCommerce」など、今では当たり前のインターネット用語ですが、当時はコンセプトはもちろん、日本語の定訳もありませんでした。

「バナーって何?あ、広告のことか!う~ん、まさか『帯』はおかしいよね?バナーって訳すしかないんじゃない?」みたいな試行錯誤の繰り返しでした。

今でも「電子商取引/eコマース」、「電子メール/Eメール」など、一部の用語にばらつきがあるのは、当時の私たちの試行錯誤の名残りではないかと思っています。

不明な点は、地元の半導体会社に電話したり、大学のコンピューターラボで働く知人にメールを送ったりしました。専門書を日本から取り寄せたり、日本に問い合わせの国際電話をかけたこともありました。

人、本、図書館、電話・・・使えるものは、何でも使ったと思います。・・・しかし解せないのは、毎日必死の思いで納品しているのに、アキラくんが「良かった」とも「悪かった」とも言ってくれないことでした。

私の翻訳は、一体どのように評価されているんだろうか?正式なトレーニングも受けていないし、学校にも行っていない。ひょっとすると、たくさんお直しが入っているのかもしれない。

いつか突然、「試用期間は終わりました」と言って、採用を打ち切られるかもしれない。心配でした。それなのに、アキラくんは何も言ってくれません。次の日になると、「今日の1本」が私を待ち受けているだけでした。

しかし、無我夢中でそんな日を続けているうちに、気が付くと3か月が経過していました。「試用期間」は、いつの間にか終わっていたようです。

振り返ってみれば、相当なスパルタだった。

とは言え、1日2~3本の記事を、即日納品で連日翻訳するのは、正直きつい仕事でした。ゆっくりお昼を食べる時間も取れません。当時はまだ大学院にも在籍していましたから、両立は大変でした。

急いで訳文をメールに打ち込んでいると、急にパソコンがフリーズし、再起動したときには原稿が消えていて、髪の毛が逆立ったこともありました。こんなストレスの多い仕事は、耐えられない。あまりにもハードなので、アキラくんに電話して文句を言ったことがあります。

「こんな分量、毎日なんてできないよ!」するとアキラくんは、「えっそう?全部翻訳しなくても、要約でいいんだよ。3本ぐらい出来るでしょ?1日5本やってる人もいるんだよ。」

・・・と、冷酷なことを言うのです(泣)。私は内心「鬼!」と思いながらも、すごすごと引き下がるしかありませんでした。なんだかんだ言っても、毎日お仕事がいただけることは、ありがたいことだったからです。

「ここからずっと仕事をいただければ、日本語教師を辞めても、何とか食べて行けそうだ・・・」そう思った私は、思い切って大学院を辞め、IT関連の仕事が多いと言われるカリフォルニアに引っ越しました。

テキサスからカリフォルニアまで、車で約5日間かかる道のりです。道中も、滞在先のホテルで毎朝仕事を請け続け・・・。後日、ホテルからモデム使用料の高額請求が来て、卒倒しそうになったこともありましたが(仕事をせずに運転した方が、安上がりだった・・・泣)。

でも、大学を離れて見知らぬ土地に行く決意が出来たのは、ネットさえあれば毎日毎日仕事が来る、という安心感があったからだと思います。

「1000本ノック」を2年半受け続けて、思ったこと。

結局私は、アキラくんの「1000本ノック」を2年半、ほぼ毎日続けました。当時を振り返ると、自分でもよくやったなと思います。あんなにストレスの大きい仕事は、今はもう出来ないと思います。

ちなみに、プロの翻訳者の稼働量は、1日平均2000~3000ワードが相場です。実働1日8時間だとすると、1時間の処理量は300ワード強。私は実働5時間のタイムリミットの中で、多いときは2000ワード程度の分量をこなしていたことになります。

今思えば、相当のスパルタです。ただ、当時の私は、翻訳者の平均的な稼働量も料金も知りませんでした。相場を知らないからこそ、文句も言わずに頑張れたのかもしれません。

私はこの経験を通じて、プロとしての心構えが身に付いたことに感謝しています。絶対に、締め切りを守ること。絶対に、途中で投げ出さないこと。

そんな姿勢が叩き込まれました。そして何よりも嬉しかった副産物は、この経験を通じて、翻訳会社のトライアルに合格できる実力が身についたことです。次回はフリーとして、どのように仕事を獲得し、キャリアを積み上げて行ったかをお話ししたいと思います。