初めまして!フリーランスで英日翻訳をしておりますランサムと申します。今年で翻訳歴21年目になるベテランです。翻訳者になる前は、英会話や英検、TOEICを教えたり、米国で大学生に日本語を教えたりしていました。現在はネットで世界中の会社から翻訳の仕事を受注しながら、日本とアメリカを往復する生活を送っています。

日本には翻訳学校が山ほどあり、翻訳者志望者もたくさんいます。しかし、学校で勉強しても、実際にプロになって生計を立てている人たちは、ほんの一握りなのではないでしょうか。

そこで第一回目の今回は、自己紹介も兼ねて、英語が大好きな日本の大学生だった私が、「英語教師」→「日本語教師」→「翻訳者」になるまでの経緯をお話ししたいと思います。

とにかく英語を使う仕事がしたかったので、まずは英語の先生に。

私は子供の頃から英語に憧れを抱いていました。自分が育った環境に違和感を覚えていたこともあり、外の世界に行けば何かが変わるかもと思っていたので、現実逃避も入っていたかもしれません(笑)。高校受験に失敗しても、英検だけは自主的に受け続けるような中高時代を送りました。

英語の教科書の文章を自分なりに翻訳するのが楽しく、将来こんなことをして食べて行ければいいのに・・・と思ったことを覚えています。ただ、具体的な方法がわからなかったので、とにかく英語を勉強すれば何か道が開けるだろう、と漠然と思っていました。

大学は英文科に進みましたが、英語一筋で勉強してきた割には相変わらず英語が話せないので、思いきって知人を頼り、アメリカの大学に一年間留学しました。この一年で英語力が飛躍的に向上し、英検一級にも合格することができました。帰国して日本の大学を卒業後、教員免許を取得。

アメリカに戻りたかったのですが、ビザや経済的事情によりすぐには戻れませんでした。日本でもずっと英語に触れていたかったので、英会話学校に就職。英会話を教えながら、再び渡米できる機会を探していました。

「日本語教師養成講座」に応募し、日本語教師として渡米。

英会話学校の主任講師を勤めて一年半経った頃、新聞に「日本語教師養成講座」への応募要項が掲載されているのを見つけました。2ヶ月間の短期講座を受講すれば、大学の学部生に日本語を教える仕事をしながらアメリカの大学院で勉強させていただけるという制度でした。このプログラムに合格すればアメリカに行けると思った私は、早速応募。北海道とジョージア州で集中講座を受けた後、晴れてテキサス大学に派遣されることになりました。

ここで私は、日本での英語の仕事の限界を知ることになります。日本で通用していた「英語のスペシャリスト」という肩書きも、英語が話せて当たり前のアメリカでは、「普通の人」としてスタートラインに立ったという意味でしかないという現実に直面したのです。どこの世界でも、人は自分が持っていない他人の能力に価値を見出すんですよね。日本で日本語が話せても、それだけでは仕事がないのと同じです。

英語が話せることは、日本でこそ価値があると思ってもらえることですが、アメリカでは「当然」でしかありません。むしろ日本語ができることの方が、アメリカでは価値があると見なされたのです。

語学が好きで、英語しか勉強してこなかった私は、英語は話せても他に専門と呼べる分野がないことに悩みました。そこで大学院では教育学とカリキュラム作成を専門にすることに決め、学部生に日本語を教えながら、外国語としての日本語を改めて学びました。

ベストセラー「日本人の知らない日本語」を地で行くような楽しい日々でしたが、基礎がないまま現場に飛び込んだため、実践を通じて学ぶことに・・・。知識不足を痛感したので、後日「日本語教育能力検定試験」を取得しました。

日本語を教えた経験が、後で翻訳の仕事にどのように役立つことになるのか、当時はわかりませんでした。でも、翻訳の仕事に就いてから、海外のお客さんに英語と日本語の発想・文化的違い(敬語など)を説明するうえで、大いに助けになりました。また文型を意識し、アメリカ人学生が理解できるようなシンプルな日本語を話す訓練をしていたことも、わかりやすい訳文を書く土台になったのではないかと思います。

大学院を卒業したが、教授にはなりたくなかった。

大学院での勉強が終わりに近づいてくると、同期の仲間は博士課程に進学したり就職活動を始めたりしましたが、私は自分には大学の教授という仕事は向いていないのではないかと感じ始めていました。

私には、文献を読み漁って論文を執筆するのが苦痛にしか思えなかったからです。むしろ教育の現場で学生に日本語を教える仕事をしているときの方が、純粋に楽しいと思えたのです。

このままみんなと同じ進路を選んでいたら、気が進まないのに大学の教授になって、苦手な論文に悪戦苦闘しながら年を取って行くのかしら・・・などとぼんやり考えていました。

しかし、大学院に在籍しなければアシスタントインストラクターの仕事はもらえません。そこで次の進路が決まるまで博士課程に在籍し、日本語を教える仕事を続けながら、他の可能性を探り始めました。

最初の翻訳の仕事は、楽しくなかった。

当時はインターネットも発達していない時代でしたから、現地で仕事を探すとなると職種は限られていました。日本料理レストランのウェイトレス、コールセンターの日本語オペレーター、翻訳チェッカーぐらいだったでしょうか。日本料理レストランは絶対無理だと思ったので、まずはコールセンターのオペレーターと翻訳チェッカーの仕事に挑戦することに。

コールセンターの仕事は大変でした。日本語オペレーターとして応募したのに、いざ入ってみたら英語部門に回されて。「二度と電話してくるなって言っただろう!マネージャーを出せ!」などとお客さんに怒鳴られて、「機械が勝手にかけちゃうんです、アイムソーリー!」と、オロオロしながら英語で謝ったのを覚えています。こんなに辛いのに、時給は日本語オペレーターより低いんです。ストレスがあまりにも大きいので、数か月で辞めました。

翻訳チェッカーとしての最初の仕事は、翻訳会社で日英の特許翻訳のチェックをする仕事でしたが、正直楽しいとは思えませんでした。そもそも特許の文章って、「特許請求の範囲」とか、出だしの文章がヘビみたいに長く、とにかく読みにくいんです。普段から簡潔でシンプルな文章を心がけてきた私には、1文が5行ぐらい続く長文は頭が痛くなるほど難解でした。

文法的な正確さをチェックする仕事だったので、出来ないことはありませんでしたが、無味乾燥で全然面白いと思えませんでした。これが翻訳業というものなら、自分には向いていないと思うほど退屈でした。しかし、ここで早々と見切りをつけていたら、今の自分はなかったと思います。

そこへ舞い込んで来た英日翻訳のお仕事の話。

そんなある日、日本語教師養成講座のかつての同級生で、ニューヨークの日系新聞社に就職した友人から久々に連絡がありました。「はなさんアルバイトしない?アパートの家賃ぐらいにはなると思うよ」とのお誘いで。ちょうどコールセンターの仕事を辞め、他の可能性を当たっている最中でしたから、ありがたく挑戦してみることにしました。

それが今のキャリアの原点となった「プレスリリースの英日翻訳」の始まりです。ここから私は英日翻訳者への一歩を踏み出して行ったのです。

次回は、どのように翻訳者としてのキャリアを積み上げて行ったかについて、お話ししたいと思います。

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ランサムはな

年間100万ワードの実務翻訳をこなす翻訳歴21年目の英日翻訳者。津田塾大学英文科、テキサス大学大学院教育学部(カリキュラム・アンド・インストラクション)を卒業。NYの日系新聞社の翻訳を始め、デル、グーグル、マイクロソフト等、一流企業が日本市場を開拓する際の製品やホームページの日本語化、Eラーニングの教材翻訳に多数参画。ネットで世界中から仕事を受注しながらアラスカなど各地を転々とした後、北海道富良野市で10年間暮す。現在はテキサスと札幌を行き来する生活を送る。英検一級。英検二次面接官。日本語教育能力検定試験合格。米国翻訳者協会(ATA)認定翻訳者。ブログは「日本とアメリカで働く翻訳者のブログ」。 ツイッター: @HanaKRansom
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