photo by Sergey Kustov
こんにちは!フリーランスの現役英日翻訳者、ランサムはなです。いつもご覧いただき、ありがとうございます!前回は、アメリカから帰国して北海道富良野市に移住するまでの顛末と、田舎暮らしで得た経験などについてお話しました。
今回は、田舎暮らしで経験した課題や、10年間の田舎暮らしの後、再び渡米を目指すまでのお話をしたいと思います。おつきあいいただければ幸いです。
翻訳者としての田舎暮らしを振り返って、思うこと。
前回の記事に書いたとおり、私たちは結局、北海道富良野市で10年間暮すことになりました。富良野は、冬の厳しい寒さと7種類(!)のゴミの分別を除けば、なかなか暮しやすいところでした。
車は不可欠でしたが、街が小さいので渋滞がほとんどありません。どのお店も無料駐車場が完備しています。病院などに行っても、大都市の大病院に比べると待ち時間がとても短く、すぐに診察してもらえることもありました。病院や郵便局に行くなどの用事を足すのに、時間がかからないことは大きなメリットでした。
18歳で北海道を離れて以来、北海道に関する記憶が止まっていたため、時間の流れが遅く、どこか昭和の雰囲気が漂う街に定住することで、不在中の空白の時間を取り戻せるような気もしました。ただ、今振り返ると、せっかくの田舎暮らしなのだから、もっとゆったり楽しめばよかったとも思います。
地元にほとんど仕事の需要(接点)がないということは、ある意味自由ですが、何かあったときにつぶしがきかないということでもあります。そのため、いつもどこか緊張感を抱えながら暮していました。
特にリーマンショックのときは、業界全体が停滞気味で、仕事が減っていましたから、「どの会社からも1番に声をかけてもらえる翻訳者にならなければ!」と気負っていました。
なので、田舎暮らしを楽しんだのは事実ですが、十分に満喫できたかというと、ちょっと気持ちにゆとりがなかった気がします。そのことが少しだけ心残りです。
311をきっかけに再渡米を決意
さて、富良野に移住した私たちは、このまま永住→リタイヤする予定でした。ですが10年を過ごすうちに、このままでいいのか?・・・という気持ちが出て来ました。年を取ると迷いがなくなると思っていましたが、実際は反対でした。
これまでいろいろな土地を転々としてきて、どの土地も個性があり面白かったのですが、「国際結婚夫婦が老後を過ごす場所として、この土地は最適だろうか?」と考えるようになりました。また、しばらく離れていた米国のことも気になり始めました。
ちょうど、夫が実家の様子を見に、米国にたびたび戻るようになった翌年に、東日本大震災が起きました。北海道は比較的被害は大きくありませんでしたが、それなりに震災の影響はありました。
夫がアメリカに一時帰省中に一人で被災した私は、残りの人生、迷っていないで何でもやってみることを決意します。
10年のブランクを経ての再渡米は大変!
とはいえ、10年のブランクを経てアメリカに戻るのは、想像していた以上に大変でした。10年の間に、アメリカは大きく様変わりしていたからです。
レンタルビデオ屋さんや本屋さんの数が激減し、銀行にキオスク端末が導入されているなど、街並みも変化していましたし、英語自体も変わっていました。私はまたまた浦島花子状態でした。
夫がアメリカ人なので、ビザの問題は幸いクリアできましたが、フリーランスとしてアメリカに戻るのは、日本で保証人なしでアパートを借りるときのように困難でした。
たとえばアメリカはクレジット重視社会なので、信用履歴が非常に重視されるのですが、過去10年間国外にいてこの記録が空白になっていたために、不審者のような扱いになってしまい、クレジットカードを取得するのが大変でした。
その他、オバマケアが可決する前に渡米したため、既往症があると医療保険に加入できないなど、課題は山積みでした。国をまたいでの大移動は、本当に大変だと改めて実感すると同時に、年齢的・体力的にまだ何とかなるうちに計画を実行に移してよかったな~、とも思いました。
医療保険のために、社内翻訳者のポジションに応募。
前述したとおり、私たちが米国に来て一番苦労したのは、医療保険に加入することでした。ご存じの方もおられると思いますが、米国には日本のような国民健康保険制度がありません(でした)。
個人で加入するか、企業に就職し、福利厚生の一環として団体医療保険に加入するしか方法がなかったのです。個人で医療保険に申し込んでも、審査で落とされてしまう日々・・・。10年のブランクがあり、加入実績がないことを理由に断られることが続きました。
困り果てた私は、ネットで見つけた技術会社の日本語社内翻訳者の求人に応募することにしました。正社員になれば、福利厚生の一環として医療保険に加入でき、実績が作れるからです。こうして、社内翻訳者としての日々が始まりました。