小学生3~4年の頃、道徳の教材として放映されていた「さわやか3組」という番組(NHK教育)を、覚えているでしょうか。

「さん・さん・さん・さわやか3組~♪」というオープニングテーマ曲を、覚えている人もけっこういると思います。同番組は1987年から2009年まで放送されており、20~30代の中には「懐かしい!」という人も、少なくないはず。

道徳の時間に、学校でテレビが見られるというのもワクワクしましたし、何より毎回、舞台の「3組」で起こる子供たちのトラブルが、まったく「さわやか」とはいえないドロドロ劇であったのも面白かった。

今回は、そんな「さわやか3組」が、「帰国子女の適応トラブル」について取り上げた回のお話です。背景には、子供たちまでもが「空気を読み合う」日本の文化があるようです。

帰国子女の女子が、「アメリカでは~」を連呼

筆者がいちばん印象的だったのは、舞台となる「3組」に、アメリカから帰国子女がやってくるというお話でした。

はじめは物珍しさから、クラスメイトたちは帰国子女と仲良くしようとします。が、その子が事あるごとに「アメリカでは~」と主張したため、徐々に溝が生まれていく……というストーリー。

ついに、ある男子がキレて、「ここは日本だぞ!アメリカじゃないんだぞ!」と叫び、帰国子女の女の子が、悔しそうな顔でうつむくシーンが生々しかったのを覚えています。

日本では小学生の間でさえ、「空気を読み合う」文化が浸透しています。低学年であれば、授業中に活発に発言したり、先生に質問したりする子もいるでしょう。

が、4年生にもなるとだんだん、「目立つのは恥ずかしい」「自己主張する子はイタい」という風潮が生まれ、「和」を乱した子が仲間はずれになる、なんてことも日常茶飯事に。

「正しいことを主張したら、嫌われる」、「“あなたと私の違い”を認め合った上での話し合いができない」小学生は沢山いますし、そういう子供たちが大人になって、「KY」を重んじる日本社会を作っていくのでしょう。

「アメリカでは~」の後に、彼女が伝えたかったこと

筆者は幼少期、少しですが海外で過ごしたことがあり、家庭での教育方針は「周りの空気に流されず、正しいと思うことを主張して議論しなさい」というものでした。

だからというわけではないのですが、「さわやか3組」で孤立していた帰国子女の女の子の気持ちが、分からなくもありません。

彼女はおそらく、クラスメイトたちに「アメリカではこうしていたよ、日本とは違うけど、あなたはどう思う?」と言いたかったのかもしれません。

彼女は、そこからの「対話」を期待していたのに、クラスメイトたちは「ここは日本なんだから従えよ!」の一点張り。

帰国子女の女の子も、言い方がややキツいなどの問題点はあったかもしれませんが、「違いを認め合う文化」が、まるでない日本の「3組」と、彼女がすれ違う様子は、痛々しいものでした。

多様性を認めるのが難しいのは、「感情」が邪魔をするから

いくら、道徳の授業で「多様性を認めましょう」と教えられても、行動に移すのは難しいものです。

同質的な振る舞いがよしとされる中で育ってきた子供たち(そして大人たち)にとって、「正しいこと」と「感情的に納得できること」は違うからです。

「なんか、あの子、私たちと違うからムカつく」という感情が生まれてしまったあとに、その負の感情を「多様性の素晴らしさ」という論理で鎮めることは難しい。それでも「ま、仕方ないよね」では済まされないことがあるように思います。

「さわやか3組」は最終的に、帰国子女の女子も「日本の小学校文化」を受け入れ、「アメリカのいいところも、日本のいいところも学び合っていきましょう」みたいな終わり方であったと記憶しています。

それが「道徳的な正解」なのでしょう。“和をもって尊しとなす”日本の文化が「社員の一体感」を醸成し、戦後の経済成長を支えたのは事実です。

和を尊ぶ「日本的経営」の素晴らしさも、確かにあると思います。ただ、それでは今、なぜ日本が世界経済の中で遅れを取り、パッシングされつつあるのか、ということですよね……。