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韓国の国際大学院は、とても特殊な空間です。1990年代の急激な国際化志向の高まりの中、政府主導で設立された韓国の国際大学院。

創立から20年ちょっとと歴史が浅く、日本と比較にならないくらい英語熱、教育熱が高い韓国の中でも、まだまだ認知度が低い教育機関です。

そして、そんなマイナーな国際大学院に集う人たちのなかには、ものすごくユニークな経歴の持ち主も。そんな彼らとの出会いはとても刺激的で、私にとっては修士号よりもずっと貴重な財産となりました。

そこで、なかでも特に印象的だった人たちをこれからご紹介していきたいと思います。今回は、教授、講師の先生たちと、彼らのクラスについて。

年配の韓国人教授と、若手の韓国系アメリカ人講師にぱっきり分かれていた、大学院の教授、講師陣

私の通った高麗大学国際大学院では、数名の外国人を除き、教授および講師陣は韓国人もしくは韓国系アメリカ人でした。

前者は50〜60代、後者は30代と、年齢層がぱっきりと分かれるのも印象的。なかでも、正規の教授はほぼ韓国人で、それも、おそろしく家柄がいい人がほとんど。

今でこそ英語が堪能な若者が多い韓国ですが、50代、60代となると、ものすご〜くレアケース。時代背景を考えてみるとわかりやすいのですが、たとえば現在60代の教授が学生だった40年前の韓国(1975年)は、漢江の奇跡と呼ばれる急激な経済発展を遂げ始めたばかり。

それ以前は世界でも最貧国のひとつだった韓国で、英語圏への留学が可能だったということは、当時の韓国社会でもほんのひとにぎりの上層階級に彼らが属していた、ということ。

講師は韓国系アメリカ人で、2世、3世が中心。さらに、私が出会った先生はUC BerkeleyかUCLAの博士号取得者もしくは課程の方ばかり。

カリフォルニアには韓国系にかぎらず移民が多く、またこのふたつの教育機関は韓国学が強いという背景がまず前提。

加えて、韓国でのリサーチ中に国際大学院でクラスを教えるというのは一定のパターンらしく、何事にも人脈が大事な韓国社会では、この国際大学院でのポジションも彼らのネットワークの中でまわされているよう。

幼い頃に北朝鮮から韓国に渡ってきた、経済学・開発学専門のY教授

まず、なんといっても思い出深いのは、日中韓の経済学、開発学が専門のY教授。小柄で、60代半ばを超えるお歳ながら、白髪ひとつないふさふさした黒髪に肌もつやつやしていて、見た目からしてとっても若々しく、お元気な方。

ユーモラスでお茶目で、時に厳しくて。私は教師としても、人としても、Y教授を尊敬していて、経済開発学、韓国経済史、世界比較経済と、3コマのクラスを受講しました。講義スタイルは一貫していて、基本的には3時間の講義、中間と期末に記述形式の試験。

Y教授は朝鮮戦争(1950年〜53年休戦)前の北朝鮮に生まれ、まだ幼い頃に韓国に渡ってきたという、教授陣の中でも異例中の異例な生い立ちの持ち主。

現大統領の出身校でもある名門大学で修士号をおさめたのち、政府系の経済シンクタンクで研究職に就き、博士号取得のため渡米。現地の大学で数年間韓国の経済を教えたあと、帰国。

それ以来、大学で教鞭をとりながら、政府系機関でもともとは韓国の経済発展のための開発、のちには途上国の開発に精力的に取り組み、私が教わっていた当時もしょっちゅう開発の現場に飛んでいました。

Y教授とは何度かランチやお茶もご一緒し、そうした折によくご家族の話も伺いました。

奥様は看護師で、アメリカ滞在時も現地で働き、帰国後も最近までは大学で看護学を教えてらしたとか、アメリカでほとんどの教育を受けた二人のご子息はそれぞれアメリカとスイスに移住されたとか。

日本の大学にも一時期滞在して研究をされていたので、日韓の相違に関するY教授の見識を伺うのも、また楽しみでした。

大英博物館勤務経験のある、朝鮮美術が専門のM教授

朝鮮美学と朝鮮美術史を教わったM教授は、見るからに育ちのいい、とても上品な、おそらく50代半ばの韓国人女性。小柄で色白で、いつも美しく髪をまとめていて、仕立ての良さそうな洋服をシックに着こなす姿がとても印象的。

そして、圧倒的にアメリカ英語が多数派の教授陣の中、唯一正統派の英国英語を話す方。アメリカ英語がやや苦手で、英国英語大好きな身としては、彼女の美しい英国英語を聴けるだけでも、毎回の講義が楽しみだったくらい。

M教授はお父様の仕事の都合で幼い頃から海外を転々とし、なかでもイギリスを始めとするヨーロッパに住んでいた時期が長く、そのため、もともとは英語が母国語に近く、今でも妹さんとの会話は英語がメイン、とのこと。

M教授のクラスはフィールドワークが多いのが特徴で、バスを借り切ってソウルから2〜3時間離れた地方に寺跡や仏像を見に出かけたり、国立博物館に儒教絵画を見に行って、館内で各自選んだ作品のプレゼンをしたり。

朝鮮美術では仏教と儒教が非常に重要な役割を占めているので、美術を通して、朝鮮の歴史を学ぶこともできました。M教授の雑談のなかでとても印象深く覚えているのが、彼女の中の、英語人格と韓国語人格の差異について。韓国語では、日本語と同様か、それ以上に、敬語がとても大切。

特に目上の人に対しては、敬語の使用が絶対。日本語では年齢的あるいは立場的に上の人であっても、身内であれば謙譲語を使いますが、韓国では外の人に対しても、「父は◯◯とおっしゃっています」「社長は今外出していらっしゃいます」という表現を用います。言語はそもそもその国の文化、精神性を色濃く反映しているもの。

M教授は「英語で話すときと、韓国語で話すときの自分はかなり違う。それぞれの言語で異なる人格を持っているようにも感じる」と話されていて、それは、人生の大半を過ごしてきた海外の地と、今の生活の拠点である韓国における、彼女の振る舞い方(あるいはその社会がM教授に求めるありかた)の差でもあるはず。

M教授の雑談に耳を傾けながら、慎重に両者のバランスをとってきただろう、これまでの彼女の人生に想いを馳せてみたりもしました。

女優並に美しくセンスもいい、国際養子が専門のA先生

最後は、UC Berkeley博士号在籍中のA先生。専門は韓国の国際養子(*)で、彼女自身もそのひとり。誕生直後に韓国の両親から養子に出され、彼女を引き取ったアメリカの里親のもとで育てられた、という経歴の持ち主。

女優といっても通用するくらい整った容姿に、いつもストレートの黒髪をすっきりとまとめ、シンプルながらセンスのよい着こなしが印象的。

(*韓国は1988年のソウルオリンピック開催時、欧米メディアから「世界一の赤ちゃん輸出国」と痛烈に批判されたほど、一時期は国際養子が盛んに行われていました。もともとは朝鮮戦争直後に両親を亡くした子供たちを救済するべく、アメリカの宣教師や慈善家たちが始めた国際養子。その後いろいろと複雑な経緯と要因が絡み合い、過去40年間に10万人を超える子供たちがアメリカを中心とする外国に養子に出されたと言われています)

A先生のクラスのタイトルは、"Transnationalism, Diaspora, Deconstructing Koreanness"。このクラスは、トピックそのものが私の関心ど真ん中だったこともあり、2年間の院生活の中でももっとも印象深いクラスのひとつ。

毎週、国際養子に限らず、多種多様なケースの移民研究の論文を2〜4本読み込み、それぞれに対してペーパーを書き、ディスカッションを重ねていきました。

いまだに「日本人=日本民族=日本国籍=日本語ネイティブ」が当然のこととして認識されることが多い日本。

一方、アメリカを中心として移民を多く受け入れている国家では、「国民国家」「国籍」「ナショナリズム」などの概念自体が根本から揺さぶられている現状があって。

両者のものすごく大きなギャップにくらくらしながら、それでも日本だけが今の現状を維持していくわけがないだろうことは容易に想像ができ、だとしたらこの先日本はどう変化していくんだろう、と講義のたびに考え込んだり。

所属する場所を変える(増やす)と、それまでと異なる世界が見えてくる

この記事を書くために教授、講師の先生方のことを一人一人思い返していると、改めて、いろんな人がいて、いろんな出会いがあったなあ、としみじみと感慨深く思えてきます。

私は、講義を通して、その人の人生そのものが感じられるような講義が好きで、それぐらいの想いや情熱を持って、私たち学生に接してくれた教授、講師の先生方と院での時間を共有できたことは、本当に幸せだったな、と思います。

次回は、そんな院生活を共に過ごした友人たちについて、お話したいと思います。